Communicational obesity?



obesityは,肥満の意.


思い付きを書きなぐってるから,検証はしていない,とんでも説である可能性のある(高い?)事を先にお詫びしておきます.


裏付けに乏しいけど,人間の,というか動物のからだは遺伝的に飢餓に最適化されているという説を聞く事がある.漫然の信じ込むのは愚かしいのだが,現象面からみると,さもありなんと思わなくもない.というか,目の前の現象を説明すべく,飢餓説が出てきたのかもしれないから,こういう思考過程は悪党商法の餌食になりやすい…


それはともかく,動物飢餓最適化仮説に従うと,衣食足りて礼節を知るどころか,人間は放っておくと際限なく食べ物,主に熱量の源を摂取し続ける.生得的に,苦いものや酸っぱいものがマズくて,甘いものがおいしく感じられるのは,苦いもの酸っぱいものは,毒や腐敗で死につながる可能性が高いのに対し,甘いものには安全な食べ物が多いとか?舌の上の味覚細胞は,甘いや塩辛いが舌の先にあるのに対し,酸っぱい,苦いは奥の方にあり,これらが嚥下する前の門番のように見えなくも無い.


http://bunseiri.hp.infoseek.co.jp/Mikaku.htm


ところが,産業社会の先進国においては,食物ってのはカロリーを基準に考えると既に必要量を大きく超えて飽和している.最小の金額で空腹を充たそうと願うと,なぜかカロリーが超過する.ホームレスと成人病っていう,冗談のような事態もあるそうだ.欠乏が当たり前だった時代の肥満というのは,言わば富の象徴でもあったはずだが,現代の肥満は,しばしば貧困やストレスの結果であったりもする.


タイトルにコミュニケーションなんてのをつけたぐらいなので,ここからは,欠乏が当たり前だった時代が,豊穣の時代を迎えるとどうなるんだべ?という妄想になる.


手紙が運ばれるようになる(かつ識字化される)前は,遠隔地にいる人との間では,他者を介した伝聞以外に連絡手段がなかった.これが,手紙そのものを運ぶようになると,遠隔地とのコミュニケーションは,おおよそ距離と時間との相関によって伝わるようになった.


さらに,有線・無線の通信技術の発明以降は,距離と時間との相関が無くなった.更に,通信手段の大衆化によって,「メディア」を握るものだけでない遠隔コミュニケーションが,ほぼ時間差無しに世界中に広がった.


こうして,歴史上初の,大衆にコミュニケーションが飽和するまで提供される時代がやってきた,のが最近のはなし.


ここで,仮説に仮説を重ねるから,途中で柱が折れて落ちてきそうな話だが,構わず続けるが,コミュニケーションにおいても,供給過多になると,どこかに取捨選択を行わないと,richになるどころか,fatになるんじゃないかと思っている.


顕著な例が,低年齢層においては,ケータイメールの返事への所要時間が,親密さであるというようなプロトコルができているとかいないとか.いや,低年齢に限らない,twitterなんかをみていても,手段が目的に転嫁している例は枚挙に暇が無いのではなかろうか(自分も含めて).


いやいや,対人コミュニケーションに限った話しではなく,対マスメディアと考えても,いかに大量のデータから質の高い情報を迅速に摂取するなんてのは,最早一種のコミュニケーション生活習慣病と読んでもいいだろう.


ふと気が付くと,communicational obesityとでも表現するような事態が,あちこちに生じているような気がする.もしくは,comunicational lifestyle-related diseasesとでも表現すればいいだろうか?どうも,風船に大量の空気を吹き込んで,いまにも破裂しそうな状態?


ここには,社会学やら心理学やらの考え方を盛り込んで,いまいちど深く掘り下げてみたら,なんかみつかるんじゃないかとも思う.


打てば響くとか,他人を出し抜いてもいち早く妥当な答えを出す競走に,大人も子どももこぞって参戦しているが,それ以前にもうちょっと内省というか,自分自身と対話する時間も必要なんじゃないかとも感じている.


というか,19世紀以降,たまたま産業元禄の時代に生まれ育っただけであり,これが未来永劫に続くとは思えない.人は(僕は?),自分が生まれた時に存在していたものは,自然と同一視する事があるが,これとて外部状況に合わせて,現時点に最適化しているだけであり,自分を取り巻く環境が変化する事により,新たな最適解を導く必要があるんじゃなかろうかとも.


Less communication may enrich significance of communication itself.