しあわせの借景



「しあわせの借景」ってテーマで曲を書こうと思ってるんだけど,なかなか完成しない.


お金と同じように,幸せってのもさびしがり屋で,放っておくと一箇所に集まろうとするんじゃなかろうかと思っている.幸せな人の周りには,幸せな人が集まってるような気がする.その人が出す幸せの空気が,なんとは無しに不幸せを遠ざけているかのような?


そして,さびしがり屋の幸せは,ちょっとばかりの幸せを大事にしないとすぐにすねてどこかへ行ってしまう?


だから,もし自分が今幸せではないが幸せになりたいのであれば,幸せな人のそばにいればいいし,手持ちの幸せをこまめに可愛がればいいんじゃないかとね.門前の小僧が習わぬ経を読むだったり,わらしべ長者だったりと,あたかも自分の周りに幸せが満ちているかのように振舞うと,ついつい幸せの方でも勘違いして居付いてしまうんじゃないかと,バカなことを考えている.


そこで,冒頭のしあわせの借景に戻る.借景というのは,造園の技法のひとつで,自分のところの前景の先に,よそさまの景色を組み込んでひとつのものとする見立てのひとつだ.

この考えは,なにも中国や日本に限られた事ではない.ドーナツとコーヒーを,高級宝石店のショーウィンドーの前で食べる,トルーマン・カポーティ原作の『ティファニーで朝食を』なんてのは,借景のひとつの有り様だろう.



借景をまやかしであると捉えることもできるだろう.しかし,まやかしを「いいもの」として受け入れてしまえば,それはその人の認識の中では「いいもの」たりえるんじゃないだろうか?


偽薬効果というのもある.医薬品の効能を調べる際などに,被験者の群をなんら効能の無い薬あたえた群と,本来の薬を投与した群とを比較して,本当にその薬が効能を示しているかを調べる方法がある.ところが,不思議なことに,効能の無い薬を与えたにも関わらず,効果が現れてしまう事がある.受け取った側が,それを「薬」だと思い込むことで,ブドウ糖の錠剤が薬に化けてしまうのだ.


世の中にはこれを悪用したインチキ療法が多々あるが,騙すのを未来の自分にしてしまうことで,借景や偽薬効果で自らを改善してしまうことだって可能なはずだ.


テレビの中の世界なんてのは,嘘で塗りこめられた虚構に満ちた世界だが,そこに憧れを抱く人は後を絶たない.ガラス一枚通した,有名人をあたかも自分の友人・知人であるかのように思い込む人もこれまた後を絶たない.後者は若干問題もあるけど…


「私の中華料理少しウソある。でもそれいいウソ。美味しいウソ」日本に四川料理をひろめた陳建民さんのこの言葉が結構気に入っている.ひとを,自分を幸せにするための嘘ってのは,賢者の贈り物のように,その過程における目的の妨げになっても,最終的にはいいもんだと思うんだけどなぁ.


クラークの三法則として知られる,A.C. クラークの第三法則に「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」というのがある.僕がいまやってる仕事は,この魔法だと思っている.嘘かもしれないけどねw


身近に幸せな人がいるなら,その人を見てあたかも自分とその幸せとを一枚の絵にしたてしまえば,今日から自分は幸せの一員だし,幸せな人と同じように振舞えばそのうち自分にまで隣の幸せが染み込んでくる.そんな「しあわせの借景」ってイメージがあるんだが,これが曲にならない.


ふと思うんだけど,自分の仕事やこうした文章で言いたいことを言えてしまうと,自分の内にある想いを歌にしようって動機が薄まるよね…創作には内的葛藤が出口を求めてさまようことが大きな糧になり得る.


…ダメじゃん,おれ.曲は完成しそうに無い.