酢豚におけるパイナップル考



【激論】あなたは酢豚にパイナップルを入れるのアリ? 反対派の男性「酢豚にパイナップルいれるんじゃねえ! ぜってー食わねえ!」
http://rocketnews24.com/2012/05/14/212153/

あなたは、酢豚にパイナップルが入っているのを許せるだろうか? それとも許せないだろうか? このテーマは人類の歴史が始まってから現在に至るまで、答えが出ることなく議論されていることである。酢豚が大好きなのに、パイナップルが入っているためゲンナリしてしまう人もいるという。



必要か否かを問われれば,酢豚にパイナップルは必要では無いのは明白だ.近年ちょっとした流行の黒酢の酢豚なんぞは肉以外の具材は入らない.水餃子のつけだれに香りと甘みの合う鎮江の黒酢も,今ではさほど珍しいものでもなくなった.巷の中華料理店でも野菜無しの黒酢の酢豚がメニューにあるだろう.パイナップル無しの酢豚の例をあげて必要なしとの結論を得る.


パイナップルは,南米原産だが16世紀にはスペインに,17世紀にはマカオや福建に既に伝わっていた.


パイナップル
パイナップル - Wikipedia


また,パイナップルの入った酢豚は,中国人が食べていた料理が直接に日本に導入されたのではなく,ヨーロッパ人の嗜好を取り入れた結果あのような様式になったらしい.


そのパイナップル入りの酢豚を日本に持ち込んだのは,1961年(昭和36年)創業の原宿の南国酒家だと言われている.原宿は戦後の米軍住宅ワシントンハイツに隣接している.代々木練兵場跡地にできたワシントンハイツの返還が1964年(昭和39年)だから,南国酒家がアメリカ人の好む料理を提供していたのではなかろうか?そして,ワシントンハイツが代々木公園やNHKなどになって,米軍属が引き上げた後にどういう街になったかはご存じの通り.


という事は,裏付けが不足するが,今日我々が「なつかしい味」と認識している酢豚は,実は中国伝来の「古老肉」ではなくて,アメリカからやって来た"Sweet and sour pork"だったのでは無いかとの仮説が浮かぶ.


実は,この仮説には土台となる別の料理の例がある.日本におけるピザは六本木のニコラスが発祥の地とされている.ニコラスのピザはナポリピッツァではなく,アメリカのピザだ.あらかじめロールカッターでカットされ,タバスコが添えられて提供されるピザはイタリアから直接日本に来たのではなくアメリカ経由で伝来した事でこういう様式で伝わってきた.ナポリピッツァは,丸いまま提供され客がナイフ・フォークで好きなように切って食べる.


そういえば,日本で供されるスパゲッティにスプーンがつくのも(不器用な)アメリカ人が伝えたからだろう.スープが多いスパゲッティ以外は,フォークだけできれいに食べられます.


話を再度酢豚に戻すが,酢豚の伝来した道のりの違いゆえか,長崎や熊本では酢豚ではなく「酢排骨」と呼んでいたらしい.これは「糖酢排骨」に由来するらしい.画像検索の結果,キュウリの入ってるものが散見されるが,炒めたキュウリってのは水っぽさと食感があまり好みでは無いが,好きずきだろうから批判はしない.


ともあれ,その伝来の経緯に思いを寄せるに,今日の日本の酢豚にパイナップルが入っているのを悪しざまに言うのには同意できない.もちろん,巷の嗜好の変化に合わせて,パイナップル入りの酢豚が日本から無くなる日が来ないとも限らないが,今日もパイナップル入りの酢豚が日本のテーブルに並んでいる以上,それは今日明日に訪れるようなものではなかろう.


南国酒家
南国酒家 - Wikipedia


ワシントンハイツ (在日米軍施設)
ワシントンハイツ (在日米軍施設) - Wikipedia


たいして関係は無いが,芸能界の一大派閥ジャニーズも,このワシントンハイツでうまれた.米軍軍属としてワシントンハイツに住んでいたジャニー喜多川が,近隣の子どもを集めて野球チームを結成した.そのメンバーの一部が芸能界にデビューした「ジャニーズ」だ.


ジャニー喜多川
ジャニー喜多川 - Wikipedia


カレーがインドから直に日本に来たのでなく,イギリス経由で日本に伝来したのと同様,それぞれに経緯があっての事なので,日本の酢豚にパイナップルが入っているという歴史は尊重してもいいだろう.世に言う欧風カレーや,蕎麦屋のカレーとインドカレーとは別の料理であり,いずれもそれぞれにおいしい.それらの間の優劣を述べる事は,自らの偏見を披露する以外に何の効能も無い.


21世紀になってモノやヒトの移動が盛んになると,広東で食べた人や,香港の高級料理店で食べた「本場」のすぶたと,日本の酢豚との違いを声高に訴える人がいるが,そんな野暮は言わない方がいい.


オットー・フォン・ビスマルクのクオートにあるように,「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」ものです.自分が見聞きしたものは,「真実」の部分集合でしかなく,同じく他人の知覚した心理の部分集合の要素との矛盾もあるでしょう.真実により近づくためには多くの経験を積み重ねた成果たる歴史にこそ学ぶべきでしょう.


世の中を広く生きるには自分の嫌いなものでも,こっそりパイナップルを横に除けて不平や不満を声高に叫ばない思慮が必要なのでは?