「常識人」



ある人物の紹介文を書こうとつらつらと考えていた.とある店の店主だが,気難しい人や偏屈者との世評があるらしいが,しょっちゅう顔を合わせている当方からすれば,9割方常識人だ.いや,おもしろいのは残りの1割なんだが,それはまた別の文脈で書くかもしれない.


そういう目で見ていると,相手を気難しいとする手合いは,その「常識」のレベルでとんでもないポカをやってる奴らなんじゃないかとも思う.「おまえ,そこでそれはやらないだろ」を平然とやってみせれば,そりゃ悪態のひとつも帰ってくるだろう.ところが,「常識」を欠く手合いは,なぜ怒られたかがわからない,もしくはそもそも怒られる理由など無いと決め付けてかかっている.それゆえ,自分に向けられた悪態を,理不尽である,不当であるとし「あいつは気難しい」や「偏屈者」と吹聴して回るのだろう.だいたい,自説に自身があるなら,赤の他人に風説を流すよりも,当人に向かって「あんたはそう言うが,俺はこう思う」と言えば,話は聞くし,納得すればこちらの立場だって理解するくらいの柔軟さはある.


さて,自分自身,決して「常識」のある方ではないのだが,そんな目で見ても,おいおいその歳でそれはないだろって手合いが少なくない.人混みでぶんぶん手を振って歩いているおっさん,傘を後ろから来る人の目の高さに向けながら階段をのぼるおばはん,雑踏の中でいきなり立ち止まるねーちゃん,電車のドアの前に立ちふさがる年寄り,優先席に座って大声で仕事の電話をかけるサラリーマン,ようは自分の身体感覚が人ごみに適応していない,他者と空間を共有する事が体感できていない,わかりやすい言い回しであらわすならいなかもの.お互い様って言葉が身に染みていない粗野な人々.そりゃこどもだってバカに育ちますわな,こんなのを日常的に見ていれば.その度に,「常識人」は自分のそれまでやっていたことを中断させられ,その小さな異常事態にいちいち対処しないとならない.些細なことでも365日続けていれば,澱がたまっていくようにいつしか層をなしていく.そうして,笑顔だった少年が苦虫を噛み潰したようなおっさんになっても仕方が無いではないか.


市井の天分ってのは,世の中と折り合いをつけないとその天分を発揮する機会に恵まれない.いや,単発ならあるのかもしれないが,それを持続する事は困難だろう.百年に一人の天才(これも随分と手垢にまみれた言い回しですが)であれば,誰かが支えてくれるかもしれないと思ったが,生前のゴッホの絵は一枚しか売れなかったし,モーツァルトだってパトロンに時におべんちゃらの一つも口にしていただろう.画聖,楽聖と比較しても仕方ないが,世に数多ある天分を継続して発揮し続けるには,時間配分にして99%の常識人として振舞うのと,1%の狂気くらいがバランスが取れているのだろう.


ただの既知外と天才とを分かつ壁は,「他者から知覚可能な」統一感の有無ではないだろうか.ランダムにぶっ壊れているのは単なる狂人であり,どこがで見たような安普請な統一感は凡俗に如かない.


常識と狂気の配分はどうでもいい,総和として大きければ「天才」とカテゴライズされてもいいのだろう.もっとも,常識にしろ狂気にしろ純度100%ではおもしろくはなさそうだが.


例によって,書きっぱなしなんで,うまいこと説明できていない.日記なんでそういうものと思って読んでいただければ幸いだ.